とび職人・多湖弘明(たごひろあき)

鳶

東京スカイツリー建設に携わった鳶職の一人。超高層建築を職場とする鉄骨鳶。スカイツリー建設中には、地上450mで東日本大震災を被災。近年では虎ノ門ヒルズや豊洲新市場の現場で鉄骨建方に携わり、現在でも東京都内の工事現場で働いている現役の鳶職人であり、親方でもある。

1976年大阪生まれ。高校を卒業後、バイクで交通事故に遭い背骨を圧迫骨折。一度は半身不随の覚悟をするも、寝たきりからの復活を遂げる。リハビリ代わりの軽い気持ちで鳶の世界へ足を踏み入れるも、その仕事の魅力に取り憑かれる。1995年、日本初となる鳶の仕事を解説したホームページを開設。1998年から約1年、現場を離れバックパッカーとしてヨーロッパを歴訪する。

2003年、活動拠点を東京に移し、Webを中心に鳶に関する情報発信を開始。カフェやバーで『鳶の視点による現場写真』展を多数開催。2012年8月、鳶写真集の電子書籍「鳶目線〜天空のファインダー〜」スマホアプリをリリースし、2014年5月には著書「鳶〜上空数百メートルを駆ける職人のひみつ〜」を洋泉社より上梓。イベントやTV出演、取材や対談、トークショー、講演もこなし、精力的に活動を続けている。

一般的によく知られていない工事現場の日常を鳶職人という視点から『鳶』の仕事の実態を写真と文章で鳶の世界を表現している。

取材のご依頼や、講演に関するお問い合わせはプレスページからお願いいたします。

生誕から頃来

大阪西成区、そこは日本でも名高い労働者の街である。
そこで生まれ育った一人の男がいた。
幼い頃からアスファルトジャングルに慣れ親しんできた
「熱血鳶(とび)」こと多湖弘明。
1976年生まれ。身長166cm、体重60Kg と少し小柄。

そんな彼から溢れ出る美的足場センスと
鉄骨鳶としての才能に対し、各方面より絶賛の声があがっている。

その人生は小学生時代の家出から始まる。
家を飛び出し、仲間の家や橋の下、マンションの屋上、
時には神社などで寝泊りし、住職にまんじゅうと牛乳をいただき、
そのご恩を胸に刻みつけた。野性的な感性やセンスを自然の中で身につけ、
それが現在の彼の基盤になっている。

その後、ハイスクールを経て1999年、
短い期間ながらもヨーロッパ、アジアと世界の建築技術を身につけるため巡回。
日本の職人魂を貫くべく、七部(ニッカポッカ)と地下足袋で世界各国をまわる。
世界各地で日本の恥....
イヤ、日本の職人の姿を世界の人々の目に焼き付け帰国。

「もはや社会現象」とまで言われるようになった彼は、世代を問わず、
いま最も注目されているアーティストといっても過言ではない。

『古い日本の伝統や、今の日本の社会の枠組みにはとらわれずに、
これからも 自分のスタイルや若い世代のビジョンを取り入れ、
ある意味どんどんみんなを裏切っていきたい!』 とクールな顔つきで話す彼。
そんな「ちんぷんかんぷん」な展開が今後、日本をどう変えていくか楽しみである。

鳶

世間が彼の活躍を冷ややかに見守る中、
彼の人生を劇的に変える出来事が起こる。

2000年、世界がミレニアムと騒いでいる最中に、
東京に第二の電波塔が建つというウワサが、大阪の彼の耳にまで届く。
「新東京タワー」、いわゆる現在の東京スカイツリーである。
当時はその噂の出所も新タワーが実際に建つかどうかも全くわからない。
何一つ根拠もない、そんな状況にもかかわらず、

『わしが建てへんかったら、誰が建てるねん。』とポツリ。
そんな大きな勘違いで、上京を決意。
2003年、ついに活躍の舞台は首都大東京へと。

目指すはスカイツリー建設への参加。
そんな暑苦しい野望だけで上京した彼に対して、
誰もが不可能だと思いつつも、わずかな期待に胸をふくらませていた。

実際、それはかなり非現実的で、無望な挑戦だったに違いない。
しかし、彼は見事にそのインポッシブルな夢を実現させたのだ。

関わるすべての人々の夢を背負い、ついに多湖弘明は
東京スカイツリー建設に携わった鳶職人の一人となったのだ。

思考は必ず現実化する。
この信念の基に、日本の未来、
さらに地球の未来を創造していく彼は、
まだまだ進化の途上。
この街にも、また一つ、
新しい伝説が生まれようとしている........


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